レイテ戦記(上)(中)(下)

引き続き大岡昇平の戦記物を読む。レイテ戦記。気になった箇所を抜き出して記録しとこう。

「卑怯を憎む観念は戦国武士にもやくざの中にもあるのに、私が今日カイバアンの日本兵の物語をすると、大抵の元兵士は「うまくやりよったな」という。いつからわれわれはこうなってしまったのか。

明治開化以来、対外的に無理に無理を重ねて来て積った怨恨の結果なのである。

太平洋戦線で戦った日本兵は、米軍の物量を「卑怯」と感じた。なにをしてもかまわないという観念もこの感情から生れたと思われる。しかし、相手もわれわれと同じく徴募された市民である。同じ市民同士の間には、戦争以前の、人間としての良心の問題があると私は考える。」(八  抵抗  上巻172頁)

「空から降って来る人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。 」 (九 海戦   上巻191頁)

「レイテ沖海戦全般を通じて、通信が海戦の経過に重大な役割を果たしているのが特色である。海戦は三〇〇カイリ離れた三つの海面で行われており、それを連繋するものは通信よりなかった。」(九 海戦  上巻209頁)

「しかし「死を賭して」はいうは易く行うに難いことである。〈中略〉ただ人は軍人の習慣とか、戦場における心理の昂進、あるいは信念に鼓舞されて、恐怖を超越するだけである。

しかしこれが一艦隊の長時間の行動となると、話は複雑となる。司令官や幕僚の個人的性格は勿論、全将兵のいわゆる「士気」といわれるものが作用する。」(九 海戦   上巻245頁)

「『戦藻録』にはないが、多くの回想には、敵は忽ち逃げてしまったという物語がついている。これは恐怖から見た幻が消えたのを、合理化するために見る第二の幻である。そういう時敵が「逃げた」と強気に表現するのが、われわれ日本人の悲しい習性であるわけだ。」(九 海戦上巻249頁)

「偵察機を持たない栗田長官は、すべて自分の想像したものによって決断していた。しかも彼はこれを退却と思いたくはなかった。」( 九 海戦上巻251頁)

「すべて大東亜戦について、旧軍人の書いた戦史及び回想は、このように作為を加えられたものであることを忘れてはならない。それは旧軍人の恥を隠し、個人的プライドを傷つけないように配慮された歴史である。さらに戦後ニ五年、現代日本の軍国主義への傾斜によって、味つけされている。歴史は単に過去の事実の記述に止まらず、常に現在の反映なのである。」(九 海戦上巻257頁)

「日本軍の訓練は厳しく、階級の差別者はひどい。兵隊は奴隷みたいなもんだ。一度義務から解放されると、彼等が極端から極端に移るのは当然なのだ。われわれの、軍隊とは違うんだ」

「おれたちの方もあまり違いはないと思うがな」と一等兵は答えた。「きみは大学を出たおかげで将校だが、おれは百姓だからただの一等兵だ。きみたちはみんなスマートで、威張らない。しかしおれたちだって、一度きみたちにも鉄砲を持たせて、日本兵の方へ押し出してやりたくなる」(十一 カリガラまで上巻343頁)

気になった一節をメモしてみたら、「第九章海戦」ばかりになった。レイテ沖海戦は、戦艦武蔵と大和が出撃。栗田長官の死への怖れを冷徹に分析している。

レイテ戦記(中)

『偶然送稿の機会にめぐまれたのは朝日の影山記者だけだった。彼は原稿のコピーを三通作り、一通をいつも身につけていたので、11月下旬バレンシア飛行場に陸軍のはやぶさ一気が不時着した時、すぐそれを托することが出来たのだった。』(二十四 壊滅 中巻446頁)

『報道班員はどこの戦線でも、兵隊からは大事にされる。兵士の知らない戦況を知っていることがあるので、情報を求められたりする。しかしオルモック周辺では少し状況が違っていたのである。』(二十四 壊滅 中巻449頁)

『十一月下旬から、夕方になると、オルモック、イビル間の海岸に、無数の丸腰の兵隊が砂に腰を下して、夕焼けの海を眺める姿が観察された。<中略>こういう遊兵を統制する力を、三十五軍は持っていなかった。』(二十四 壊滅 中巻449頁)

『一、リモン峠が突破されれば、オルモックへの直接脅威であるのは、軍はもとより承知している。そこが「破断界」(これは物理学の用語で、剛体が圧力に耐久する限界に来た時、突然こわれる限界を指す。砲兵科出身の土居参謀の考案した比喩)になられてはたまったものではない』(十八 死の谷 中巻192頁)

『記憶が薄れているのは、必ずしも二〇年以上前のことのせいばかりではない。脊梁山脈の雨の中を木のすすまぬ作戦に従わされている兵士は、すぐ時空の観念を失くしてしまう。<中略>攻撃予定は十二月八日の大詔奉戴日であったと漠然と考えている。』(二十一 ブラウエンの戦い 中巻313頁)