日本写真史(上)

写真の登場は、作品の複製、コミュニケーションの脱文字化など、人類にとって、大きなインパクトがあった。

ダゲレオタイプは、フランス政府が買取、公開したので、新たな技術革新が次々と起き、あっという間にコストが下がったそうだ。

新たな技術から表現への昇華。いまインターネットで起きていることを俯瞰するには、200年前に写真がもたらした事柄を学べばよい。

フォトジャーナリズムについて。

「第1章 Ⅲ 報道と宣伝 -戦争の時代のなかで-」から抜き書き。

1942年1月 陸軍参謀本部から支援を受けた東方社から刊行された「FRONT」。

東方社スタッフは木村伊兵衛、多川精一ら。迫力ある戦闘シーンのモンタージュを作り出す。

「日中戦争から太平洋戦争までの間、多数の写真家が部隊に同行して戦争を記録し、新聞や雑誌で発表している。現地でなにを撮るかの判断は、ほぼ写真家たちに任されており、行軍や戦闘、あるいは占領地での日常風景など、あらゆる場面が撮影された。」(81頁)

「1940年まではもっぱら新聞社や雑誌社、あるいは工房から特派員というかたちで送り出されていた。よく1941年秋からは、それに加え軍の報道班の一員として徴用されるようになる。報道班とはドイツのプロパガンダ中隊を手本とした制度で、写真家のほか漫画家、文筆家、映画カメラマンなどで構成された。」(82-83頁)

大岡昇平のレイテ戦記中巻449頁に、「報道班員はどこの戦線でも兵隊から大事にされる」と書いてある。

「軍機保護法、要塞地帯法、軍用資源秘密保護法などの法令が撮影場所を厳しく制限した。さらに、新聞社は内務省の検閲を受けることが義務付けられたが、1940年頃からは社内に検閲対応の部局を設けるようになり、報道の自由を自ら縛っていった。」(84頁)

堀田善衛が方丈記私記で書いた東京下町の空襲後の風景は撮影されてたのだろうか。

「大本営による公式発表がないかぎり、空襲被害の取材と報道が禁じられていた」(92頁)

著)鳥原学

中公新書