タグ別アーカイブ: 第二次世界大戦

日本のいちばん長い日

ポツダム宣言受託の議論から終戦の玉音放送に至る内閣、宮城、軍で起きていた出来事を時間軸に整理し、同時進行で再現した。

グイグイ引き込まれる。また、国家の方針を決断するドキュメントで、戦争の悲惨さなどを詳述しているわけではないので、それほど暗い気持ちにはならない。むしろ、何千万国民、そして世界相手に、自分個人の意見を述べなければならない、その重さがこの本を読み進むうちに感じられ、襟を正す気持ちになる。

鈴木貫太郎首相

阿南陸相の自刃。

畑中、椎崎中佐の叛乱と、対応に苦慮する

陸軍に比べ、米内海相など海軍の動向はあまり表記はない。

千葉駅前と銀座にある塚本総業ビルの創業者が、出てきた。田中軍司令官の副官塚本清大尉。

著)半藤一利

映画も見た。岡本喜八監督版。阿南陸相役は三船敏郎。
畑中中佐役が黒沢年男。凄い演技。井田中佐は高橋悦史。天本英世、伊藤雄之助などなど。狂気的な演技。何言ってるのか聞き取れない。仁義なき戦いを思い出した。

みんな痩せててギラギラしてる感じはもういまの俳優では出せないんだろう。

 

 

日本の歴史 24 ファシズムへの道

ワイマル共和国」について先月読んだが、それと同じ時代の日本の歴史を学ぶのにこの本を読んでみた。この本も長い間、本棚に眠っていた。

金解禁からの金融恐慌から満州事変、2.26事変、さらにエログロナンセンスにいたるまで多岐な領域が書かれているが、とても読みやすく、面白い。

ファシズムは国家独占資本主義であり、前時代の旧中産階級の厚みがあって出現する、そうだ。

著)大内 力

中公文庫

ワイマル共和国

なぜナチスが生まれたのか?知りたくて購入してみた。

1920年3月ドイツ労働者党は国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と名前を改めた。

ナチスはあくまで大衆運動として発展した。

1924年ヒトラーの一揆裁判。

1924年12月選挙:ナチス議席数激減;ドーズ案、ドイツ復興に関してアメリカ人ドーズが提案

1925年2月大統領選挙:第1回投票、ナチス、ルーデンドルフ候補30万票。第2回投票、ヒンデンブルグ(1,465万票、帝制派の軍人)大統領に。

1925年10月ロカルノ条約。ドイツが国際舞台に復帰するきっかけ。(1926年9月に国際連盟に復帰。常任理事国)

1926年 シュトレーゼマン外相、ブリアン外相(仏)、チェンバレン、ドーズにノーベル平和賞。

1926年秋:ヒンデンブルグにゼークト罷免される。ゼークトを継いで、国防軍の実権はシュライヒャーに。

1924年-1928年まで:ドイツは経済復興とある程度の社会化に成功。高額所得者は戦前の半分に。しかし経済復興は流入するアメリカ資本で公共物を建築することで成し遂げられた。

1926年 国家人民党フーゲンブルグ(ナチス以前の大物右派)
ヤング案反対の国民署名集めに、ヒトラーも加えられる。知名度全国区に。600 万票

1928年-1929年冬:失業者増加(200万人)。米国資本が本国の好景気で流出。失業保険案は資本家の反対で頓挫。

1929年ミュラー社会民主党内閣終焉。ブリューニング内閣発足。これ以降議会内閣は終わりを告げ、「大統領内閣」時代に。議会から独立して内閣を選ぶ。政府が議会を顧慮することなく政治を進める。

財政改革に憲法のあらゆる解釈を利用した。大統領の緊急令を発布。議会解散。選挙中に緊急令を再度発布。

1929年10 月24 日ウォール街株暴落

1930年9月14日総選挙。ナチスが大躍進(12議席から107議席)、第3党に共産党(77議席)。本来右派の国家人民党が大幅減少(73議席から41議席へ)。極右派勢力はナチスに収斂。

ナチス飛躍の重要な戦術2つは、資本家を味方にする。国防軍を敵に回さない。ナチスは本来社会主義を標榜、資本主義を攻撃、下層中産階級を惹きつけてきた。

製鉄トラストのティッセンは早くからナチスに献金。フーゲンベルグとの提携以降、大口資本家との交流始まる。

突撃隊(SA)ヤジ将軍などの集まりだが、軍人に組織化。これに対抗するために親衛隊(SS)を作った。1929年5月、ミュンヘンで国防軍がナチスと協力することを熱烈に訴えた。

1930年国防相グレーナーは、ナチスが共産主義と同じく破壊的存在であると布告。

1930年10月14日新議会招集。ナチスは議会の運行不能を狙う。デモ隊、プロイセン突撃隊の制服を議会に持ち込み、不信任動議提出で混乱。議会を否定。

1930年末、失業者400万人。

1931年3月独墺関税同盟。フランスが資本引き上げ。
1931年6月米国大統領「フーバー・モラトリアム」1年間債務返却延期。
6月北ドイツ羊毛会社倒産、7月ダナト銀行営業停止。

1930年末からシュライヒャーとナチスが接近。グレーナーはナチスを嫌っていたが、シュライヒャーはナチスを懐柔し国防軍に組み込もうという野心を持っていた。

1931年夏以降、ヒトラーは資本家と頻繁に会談。両者を結びつけたのは、1930年4月ライヒスバンク総裁をやめたシャハト。
1932年3月 大統領選。ヒンデンブルグは84歳。再選不出馬であれば、ヒトラーが大統領になりそうだったので、ブリューニングが再出馬促す。ヒンデンブルグ1940万票。ヒトラー1340万票。

ヒトラーはこの選挙直前までドイツ国籍を持ってなかった。この時期から資本家から潤沢な献金。

1932年4月国防相グレーナーが大統領と首相に説いて、ナチス突撃隊、親衛隊を禁止する緊急令発布。
しかし、その2日後、ヒンデンブルグ大統領は、社会民主党の「国旗団」も解散すべしとの書簡をグレーナーに送る。(シュライヒャーの差し金)。グレーナーはシュライヒャーから国防相を辞職すべきと要求され、拒否したが、結局辞職。

1932年バーベン内閣。彼のあと、シュライヒャー内閣。シュライヒャーは自身の望みである軍制内閣を作ろうと、ヒトラーと結び、グレーナーなどを攻撃。しかし、その間にナチス増大化。

1932年7月ナチスが第1党(230議席)。第2党は共産党。

シュライヒャーを失脚させようと、バーベンはヒトラーに近づく。

1933年1月30日ヒンデンブルグ大統領がヒトラー首相を承認。副首相バーベン。

「ヒトラーの政権掌握はクーデターや暴動の結果でなく、大統領の任命という合法的手段によるものだったが、ワイマル共和国打倒を公言していた政治勢力が国政の枢軸を担うことになった」

国会の3分の2決議でヒトラーへ全権委任する授権法を成立

政党が国民的機能を果たさなかったとき、官僚と軍隊がこの共和国の最大の実力者となったのは当然であった。

ドイツ国民はビスマルク以来、官僚の支配に馴れており、みずから国家を形づくるという意識と慣行に欠けていた。

社会と人間の存立のためになにが重要なものを破壊するものが民主主義の制度を悪用して、その勢力を伸ばそうとするときには、あらゆる手段をもってそれと闘わねばならぬということを知らなかった。それがヒトラーを生んだ最大の要因である。(p.207、抄訳)

著)林健太郎

中公新書

同じ時代の日本について知りたくて「日本の歴史 24 ファシズムへの道(大内 力、中公文庫)」も読んでみた。

堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五

日本で途轍もない出来事が進行してるときに、海外に滞在してると、妙な気分になる。

実体験を伴わないフワフワ感しかないのに、同調しなければならないプレッシャー。

堀田善衛の上海日記もそんな心持に溢れてる。

昭和20年8月の終戦も上海では事前に情報が流れていた。

『レイテ戦記』のように南方で悲惨な目にあいながら戦ってる人たち。将校たち。上海にいる人。同時期に日本人として生まれて、こうも体験が違うものか。

集英社

方丈記私記 堀田善衛

「天皇制というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災殃を人民は目をパチクリさせられながら無理やりに呑み下され、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根づいているのである。」(p.227、阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ)

1945年3月10日東京下町の大空襲、米軍の無差別絨毯爆撃のあと、堀田善衞が現場に行くと、巡幸に来た昭和天皇におばあちゃんが、こんなことになっちまって申し訳ないと、お辞儀をしていたという。

「土下座をして、涙を、流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました」

「ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる!〈中略〉こういう奇怪な逆転がどうしていったい起り得るのか!」

(三 羽なければ、空をも飛ぶべからず 61頁)

どちらかというと、怒って然るべきなのに、その光景に作者は衝撃を受けた。読んでる自分も衝撃だった。

軍事施設以外を狙った攻撃は戦争でルール違反だということを知らなかった。下町の大空襲は、その悲惨さしか知らない。戦争とは民家も焼き払われるものだと思っていた。

民家群への絨毯爆撃と、その処分について大岡昇平著『ながい旅』で少し知った。

米国に対しての感情形成って、複雑に出来ている。

著)堀田善衞
ちくま文庫 2012年第15刷

両大戦間の世界

安倍政権になって、日本が右傾化している。という。いや、そもそもが左寄りだったのが、中道になっただけだ、という人もいる。

大岡昇平の『レイテ戦記(上)』に「戦後ニ五年、現代日本の軍国主義への傾斜」とある。右傾化、軍国への懸念は、戦後いつの時代でもあったらしい。それが、日本をバランス良く保つ民族の知恵なんだろうか。

ただ、シャルリ、IS、ボコハラムなどなど、世界で盛り上がる民族主義、頻発するテロをみて、なんかモヤモヤ感は高まってる。

聞けば、ナチスは民主選挙から生れたというし、第一次世界大戦の記憶も生々しいのに第二次世界大戦はなぜ起きえたのか?ソビエトは?

安倍政権の役割を考えるのに、こうした20世紀の歴史を学ぶのも悪くないだろう。

『両大戦の間の世界』は本棚に長い間眠ってた。だけど1910年から1950年までの40年間を俯瞰するのに最適な書だった。

経済恐慌の襲来 268頁

ナチス党の大躍進

林健太郎

レイテ戦記(上)(中)(下)

引き続き大岡昇平の戦記物を読む。レイテ戦記。気になった箇所を抜き出して記録しとこう。

「卑怯を憎む観念は戦国武士にもやくざの中にもあるのに、私が今日カイバアンの日本兵の物語をすると、大抵の元兵士は「うまくやりよったな」という。いつからわれわれはこうなってしまったのか。

明治開化以来、対外的に無理に無理を重ねて来て積った怨恨の結果なのである。

太平洋戦線で戦った日本兵は、米軍の物量を「卑怯」と感じた。なにをしてもかまわないという観念もこの感情から生れたと思われる。しかし、相手もわれわれと同じく徴募された市民である。同じ市民同士の間には、戦争以前の、人間としての良心の問題があると私は考える。」(八  抵抗  上巻172頁)

「空から降って来る人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。 」 (九 海戦   上巻191頁)

「レイテ沖海戦全般を通じて、通信が海戦の経過に重大な役割を果たしているのが特色である。海戦は三〇〇カイリ離れた三つの海面で行われており、それを連繋するものは通信よりなかった。」(九 海戦  上巻209頁)

「しかし「死を賭して」はいうは易く行うに難いことである。〈中略〉ただ人は軍人の習慣とか、戦場における心理の昂進、あるいは信念に鼓舞されて、恐怖を超越するだけである。

しかしこれが一艦隊の長時間の行動となると、話は複雑となる。司令官や幕僚の個人的性格は勿論、全将兵のいわゆる「士気」といわれるものが作用する。」(九 海戦   上巻245頁)

「『戦藻録』にはないが、多くの回想には、敵は忽ち逃げてしまったという物語がついている。これは恐怖から見た幻が消えたのを、合理化するために見る第二の幻である。そういう時敵が「逃げた」と強気に表現するのが、われわれ日本人の悲しい習性であるわけだ。」(九 海戦上巻249頁)

「偵察機を持たない栗田長官は、すべて自分の想像したものによって決断していた。しかも彼はこれを退却と思いたくはなかった。」( 九 海戦上巻251頁)

「すべて大東亜戦について、旧軍人の書いた戦史及び回想は、このように作為を加えられたものであることを忘れてはならない。それは旧軍人の恥を隠し、個人的プライドを傷つけないように配慮された歴史である。さらに戦後ニ五年、現代日本の軍国主義への傾斜によって、味つけされている。歴史は単に過去の事実の記述に止まらず、常に現在の反映なのである。」(九 海戦上巻257頁)

「日本軍の訓練は厳しく、階級の差別者はひどい。兵隊は奴隷みたいなもんだ。一度義務から解放されると、彼等が極端から極端に移るのは当然なのだ。われわれの、軍隊とは違うんだ」

「おれたちの方もあまり違いはないと思うがな」と一等兵は答えた。「きみは大学を出たおかげで将校だが、おれは百姓だからただの一等兵だ。きみたちはみんなスマートで、威張らない。しかしおれたちだって、一度きみたちにも鉄砲を持たせて、日本兵の方へ押し出してやりたくなる」(十一 カリガラまで上巻343頁)

気になった一節をメモしてみたら、「第九章海戦」ばかりになった。レイテ沖海戦は、戦艦武蔵と大和が出撃。栗田長官の死への怖れを冷徹に分析している。

レイテ戦記(中)

『偶然送稿の機会にめぐまれたのは朝日の影山記者だけだった。彼は原稿のコピーを三通作り、一通をいつも身につけていたので、11月下旬バレンシア飛行場に陸軍のはやぶさ一気が不時着した時、すぐそれを托することが出来たのだった。』(二十四 壊滅 中巻446頁)

『報道班員はどこの戦線でも、兵隊からは大事にされる。兵士の知らない戦況を知っていることがあるので、情報を求められたりする。しかしオルモック周辺では少し状況が違っていたのである。』(二十四 壊滅 中巻449頁)

『十一月下旬から、夕方になると、オルモック、イビル間の海岸に、無数の丸腰の兵隊が砂に腰を下して、夕焼けの海を眺める姿が観察された。<中略>こういう遊兵を統制する力を、三十五軍は持っていなかった。』(二十四 壊滅 中巻449頁)

『一、リモン峠が突破されれば、オルモックへの直接脅威であるのは、軍はもとより承知している。そこが「破断界」(これは物理学の用語で、剛体が圧力に耐久する限界に来た時、突然こわれる限界を指す。砲兵科出身の土居参謀の考案した比喩)になられてはたまったものではない』(十八 死の谷 中巻192頁)

『記憶が薄れているのは、必ずしも二〇年以上前のことのせいばかりではない。脊梁山脈の雨の中を木のすすまぬ作戦に従わされている兵士は、すぐ時空の観念を失くしてしまう。<中略>攻撃予定は十二月八日の大詔奉戴日であったと漠然と考えている。』(二十一 ブラウエンの戦い 中巻313頁)

ながい旅(大岡昇平)

本棚に忘れられていた本。恐らく30年以上、棚に立てかけられたままだった。

大岡昇平のレイテ戦記を探していて、見つからず、偶々手に取った。当初読みづらいかなと思ったが、どんどんページが進む。

それは、公判のやりとりが会話体で続くせいだろう。セリフは作家が描く状況説明より読者を引き込ませるのかもしれない。

セリフといえば、フジテレビ「サワコの朝」で、倉本聰さんが「台本貰うと自分のセリフを数えて、自分の出番が少ないと言う人がタマにいて、困ったもんだ」ということを言っていた。

「セリフは表現の最後の手段なんですよ」つまり、話さなくても存在感というか、表現は成立する、ということなんだろう。

「サワコの朝」で倉本さんが「北の国から」のワンシーンを解説する。

餞別の封筒から一万円2枚が出てくる。そのお札に泥がこびりついている。なんで泥がついてるのか?その説明は映像のなかではされない。

番組のトークによると、倉本さんの子供時代の実体験だそうだ。自分が子供の頃、母親がお年玉を500円くれた。しかし、自分はそれを使えなかった。その500円に、貨幣価値以上のモノを感じたからだ。という。とてもジーンとする話だった。北の国からのシーンはその経験を基づいているのだという。

劇中で母が500円渡す。そのシーンで「ほら、これなにかに使いなさい」、「ほら、これ」、無言のまま。。

いろんな選択肢があるが、どんな違いがあるのだろう。無言の背景を受けてに想像させるのが一番訴え力が強い気がするけれど、そのシーンに至るストーリー性もまたよく描けてなければ、伝わらないだろう。

別な日の「サワコの朝」で糸井重里さんが、コピーを作るときに表現をどう削ぎ落とんですか?という問いに、「自分は削ぎ落としてるつもりはない。一気に言っている」と言っていた。

ワンセンテンスにいろんな背景を詰め込んだコピーは、さきほどの無言シーンのごとく、短いがゆえに人の想像力を刺激するのだろう。それは、まるでコンテンツが自らのメッセージの受けてを探すかのようだ。

この「ながい旅」も、作者の感情が削ぎ落とされた文章が続く。作家は膨大な資料の記録者に特化し淡々と話が進む。

それでも、この話に引き込まれるのは、米国絨毯爆撃の膨大な死者、敗戦間際の混乱具合などが、文章の背後に自然と想像できてしまうからであろうか。

膨大な記録を読むと群衆が自然と動く。よく人物が描けていると評することがあるが、主人公を上手く描こうとせずとも、圧倒的な混乱さの記録は、それだけで主人公や群衆が動きだす。

あっという間に読めた。

ながい旅  –  大岡昇平。自分が読んだのは、新潮社のハードカバー初版本。

ちなみに、「明日への遺言」というタイトルで映画化。主演が藤田まこと。トレーラーを見たけど、背の高いという岡田資中将のイメージと違った。。。