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アメリカ文化外交と日本 冷戦期の文化と人の交流

図書館で見かけて読んでみた。

USIS(U.S. International Communication Agency)の日本での活動。

福岡に行ったとき、天神に「アメリカ文化センター」という看板をみかけた。それがUSISだということを本書で知った。

メモ

1940年8月米州通称文化関係調整局(45年3月に米州局)ロックフェラー局。

映画の検閲。ディズニーに中南米舞台の映画製作支援。ドイツ映画、ドイツ寄り放送局に圧力。

テレビ放送初期に、米国番組、たとえば「ファミリー・アルバム」を提供した。ほかに英語を学ぶ番組など。
米国事情を新聞社・放送局に素材・資料として提供。

湯川物語
反共映画などの製作資金支援。1953年-60年の間に5本。
東映1957年の「ジェット機出動 第101航空基地」の主演は高倉健。

1952年公開の「硫黄島の砂」は洋画興収2位。
1956年「機動部隊」
週刊朝日「戦争映画と大衆-「機動部隊をどう受けとったか」

フォークナーセミナー、シンフォニー・オブ・ジ・エア

ファミリー・オブ・マン、原子力平和利用(アイゼンハワーの国連演説”Atoms for Peace” 1953年12月)関連。1955年11月「原子力平和利用博覧会」開催。2年間で263万人動員。

藤田文子
東京大学出版会

エジソンと映画の時代

図書館で見つけ借りる(10月)

映画勃興期について詳細に記されている。

本書で勉強なったのは、初期映画は尺が短かったので、映画館主がそれを組み合わせ見せていたという点。観客が楽しめるかどうかは、映画館主のセンスにかかっていた。今風にいうと、キュレーション?

また、この当時から窃盗をしても金持ちは軽い刑、貧しい人は重い刑になるといった社会的テーマを扱う作品よりも、娯楽作品のほうが人気があったというのも面白かった。

調べてみるとYouTubeには映画初期の作品がたくさんアップロードされている。映像の勉強も文献だけでなく、気軽に昔の作品が観れるとなると、だいぶ変わりそう。

メモ

本書で紹介されている初期の映画やポスターなどの資料はYouTubeなどで見ることができる。たとえば、下は「大列車強盗(The Great Train Robbery)」。

ズープラキシスコープ(Zoopraxiscope):

写真家エドワード・マイブリッジ(Edweard MuybridgeEdweard Muybridge online archive)が発明。内側に写真を貼った筒を回してスリッドから覗くと動画のように見える装置。(たしか、六本木ミッドタウンのフジフィルムの写真博物館に同じような装置が1台置いてあったような。。)

マイブリッジはズプラキシスコープの発明でイラストレイテッド・ロンドン・ニュース(1889年5月25日土曜日)の表紙(リンク先はこの書に掲載されているのと同じもの)を飾る。1888年2月エジソンと会談。
参考:GIZMODEの記事。「雲の映画館」

キネトグラフ:撮影装置
キネトスコープ:映写装置

モンキーシャインズ(Monkeyshines):最初の映画と言われる。GE Reportsでその映像が見られる。

原題:Edison and the Age of Motion Pictures

著)チャールズ・マッサー(Charles Musser
訳)仁井田千絵・藤田純一

オールバックの放送作家

iTunesのポッドキャストで、TBS JUNKの爆笑問題カウボーイ、アンタッチャブルシカゴマンゴ、フジテレビお台場寄席は、ずっと聞いている。iPhoneでDLできるし。寝る前とか。出張に行くとき飛行機の中とか。爆笑問題の『ひとづま枠』はサイコーにオモシロイ。

この本の筆者、高橋洋二氏は、JUNKの爆問とアンタッチャブル枠の両方の構成をやってる人と買ってからわかって、俄然読む気が増した。あの笑い声なのかとか。。

■ メモ

p.182 80年代以降見かけなくなったタイプ。「ちゃん付け」で肩をもんでくる人。30%は無意識に使っていた。
この時代から、練りに練ったVTRで勝負する番組が主流となっていく

p.183 テレビ表現が自立した。90年代は、テレビで育った人材が、テレビこそ一番優れた表現手段と確信して、番組を制作し始めた
この頃から、「テレビ的」というものが増えた。テレビ的じゃないというのはどういうことか?それは視聴者(の中の大多数)が理解できない、ちょっと深いに感じる、知らない人が出ている、といったものか

p.186 テレビ作り屋と笑い作り屋の分業。枠組みと中身の分業

p.199 「テレビ作りがうまい人たちが作るテレビ番組は本当によくできている」という事実が「テレビを熱心に見る人たち」だけに伝わっている。

p.200 ものすごく好きなテレビ番組を自分で選択して見ている人は、ものすごく好きなテレビ以外のことをテレビに求めることはしなくなる

p.201 テレビ以外のものを必要としなくなったテレビ ⇒ 映画の番組などが不要に

p.228 我々構成作家は、ここで太田がこうボケたらどうかという「ボケ案」も考える

p.243 はんにゃは55号で、オードリーはダイラケ。

(2009年)

著)高橋洋二

日本写真史(上)

写真の登場は、作品の複製、コミュニケーションの脱文字化など、人類にとって、大きなインパクトがあった。

ダゲレオタイプは、フランス政府が買取、公開したので、新たな技術革新が次々と起き、あっという間にコストが下がったそうだ。

新たな技術から表現への昇華。いまインターネットで起きていることを俯瞰するには、200年前に写真がもたらした事柄を学べばよい。

フォトジャーナリズムについて。

「第1章 Ⅲ 報道と宣伝 -戦争の時代のなかで-」から抜き書き。

1942年1月 陸軍参謀本部から支援を受けた東方社から刊行された「FRONT」。

東方社スタッフは木村伊兵衛、多川精一ら。迫力ある戦闘シーンのモンタージュを作り出す。

「日中戦争から太平洋戦争までの間、多数の写真家が部隊に同行して戦争を記録し、新聞や雑誌で発表している。現地でなにを撮るかの判断は、ほぼ写真家たちに任されており、行軍や戦闘、あるいは占領地での日常風景など、あらゆる場面が撮影された。」(81頁)

「1940年まではもっぱら新聞社や雑誌社、あるいは工房から特派員というかたちで送り出されていた。よく1941年秋からは、それに加え軍の報道班の一員として徴用されるようになる。報道班とはドイツのプロパガンダ中隊を手本とした制度で、写真家のほか漫画家、文筆家、映画カメラマンなどで構成された。」(82-83頁)

大岡昇平のレイテ戦記中巻449頁に、「報道班員はどこの戦線でも兵隊から大事にされる」と書いてある。

「軍機保護法、要塞地帯法、軍用資源秘密保護法などの法令が撮影場所を厳しく制限した。さらに、新聞社は内務省の検閲を受けることが義務付けられたが、1940年頃からは社内に検閲対応の部局を設けるようになり、報道の自由を自ら縛っていった。」(84頁)

堀田善衛が方丈記私記で書いた東京下町の空襲後の風景は撮影されてたのだろうか。

「大本営による公式発表がないかぎり、空襲被害の取材と報道が禁じられていた」(92頁)

著)鳥原学

中公新書

マインクラフト 革命的ゲームの真実

最近ハマってるマインクラフト。とても面白い。

この本は、マインクラフトを作った若者「ノッチ」の生い立ち、マインクラフトの成長を描いたもの。

マインクラフトは、ウェブ版レゴのようなもの。ブロックを積み上げていろいろ建築する。

こんなもの「マインクラフト:インディーズゲームの大ヒットが教えてくれること」を書いた。