カテゴリー別アーカイブ: 評論・批評

思考する機械 コンピュータ

コンピュータとは、、「機能の抽象化」である。

「AND」と「OR」と「INVERT」

「すべてのコンピュータは、何ができるか、そして、何ができないかにおいて基本的に等価である」(序文)

「ビットとは、違いを表すための単位の最小のものである。「電気が流れている状態」と「電気が流れていない状態」ということになる。「ビット」では二つの種類を1と0で表すが、これは便宜上の表現であってこの二つは何と表現してもかまわない-「真」と「 偽」と表現しても(中略)自由である。」(思考の基本部品)

「コンピュータチップは、大量の「スイッチ」と「コネクタ」を提供できるテクノロジーであればどんなテクノロジーを使っても作成できる。」(思考の基本部品)

「コンピュータは、入力が少々不完全であっても、完全な出力を生み出せるテクノロジーにもとづいて実装(実現)されなければならない、ということである。そして、どの段階においても入力を規定の状態にまで増幅する機能を有することがデジタルテクノロジーの特色である」(思考の基本部品)

著)ダニエル・ヒリス
訳)倉橋彰
草思社文庫

The Pattern on the stone – the simple ideas that make computers work
W. Daniel HIllis

情報立国・日本の戦争

中国の防火長城。金盾(ジンドゥオン)

VPNも発見、遮断する。また個人の検索から政治傾向を推論する機能も持っていると言われる。

「電子戦とは「指向性エネルギー兵器」を使った戦争を指す。<中略>「指向性エネルギー兵器の中でも、最も危険とされているのが、核爆発電磁パルス兵器だ。これは高そう大気圏で核爆発を起こし、協力な電磁パルス(EMP)を発生させる。EMPを受けたケーブルやアンテナ類には高エネルギーの電流が生じ、それらに接続された電子機器などに過剰な電流が流れ、半導体や電子回路が損傷を受ける。」(137頁)

著)山崎文明

角川新書

原点が存在する 谷川雁

とにかくフレーズの宝庫な本。初めて読んだときは衝撃だった。学生運動盛んな60年代人には親しみある人だと思うが、自分は最近センパイに教えてもらうまで知らなかった。いま、こんな言葉を吐く人はいないから、誰もが衝撃受けると思う。

辺境の眼は疑う

「私は考える。戦争が終って1ダースの時がすぎた。この歳月の文化的意義とは何であるか?うまくいえないが、それは資本論をよみあぐむ牛飼の青年やシェイクスピアを愛する電話交換手などという存在がおびただしく生まれたことにあるだろう。」(86頁)

意識の海のものがたりへ

「<私>が上陸する前から、この島社会の求心運動すなわち統治の作用は翻訳能力の問題に帰していた。」

工作者の死体に萌えるもの

「東洋の無。。。それはゼロへ向かって収斂するエネルギーであり、その爆発的な反作用の力に民衆の異様な創造の力を見ない者はついにアジアの何たるかを知らないのである。」(116頁)

「表現の核心が無である。」

「連帯を求めて孤立を恐れず」

「瞬間の王」

著)谷川雁

ワイマル共和国

なぜナチスが生まれたのか?知りたくて購入してみた。

1920年3月ドイツ労働者党は国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と名前を改めた。

ナチスはあくまで大衆運動として発展した。

1924年ヒトラーの一揆裁判。

1924年12月選挙:ナチス議席数激減;ドーズ案、ドイツ復興に関してアメリカ人ドーズが提案

1925年2月大統領選挙:第1回投票、ナチス、ルーデンドルフ候補30万票。第2回投票、ヒンデンブルグ(1,465万票、帝制派の軍人)大統領に。

1925年10月ロカルノ条約。ドイツが国際舞台に復帰するきっかけ。(1926年9月に国際連盟に復帰。常任理事国)

1926年 シュトレーゼマン外相、ブリアン外相(仏)、チェンバレン、ドーズにノーベル平和賞。

1926年秋:ヒンデンブルグにゼークト罷免される。ゼークトを継いで、国防軍の実権はシュライヒャーに。

1924年-1928年まで:ドイツは経済復興とある程度の社会化に成功。高額所得者は戦前の半分に。しかし経済復興は流入するアメリカ資本で公共物を建築することで成し遂げられた。

1926年 国家人民党フーゲンブルグ(ナチス以前の大物右派)
ヤング案反対の国民署名集めに、ヒトラーも加えられる。知名度全国区に。600 万票

1928年-1929年冬:失業者増加(200万人)。米国資本が本国の好景気で流出。失業保険案は資本家の反対で頓挫。

1929年ミュラー社会民主党内閣終焉。ブリューニング内閣発足。これ以降議会内閣は終わりを告げ、「大統領内閣」時代に。議会から独立して内閣を選ぶ。政府が議会を顧慮することなく政治を進める。

財政改革に憲法のあらゆる解釈を利用した。大統領の緊急令を発布。議会解散。選挙中に緊急令を再度発布。

1929年10 月24 日ウォール街株暴落

1930年9月14日総選挙。ナチスが大躍進(12議席から107議席)、第3党に共産党(77議席)。本来右派の国家人民党が大幅減少(73議席から41議席へ)。極右派勢力はナチスに収斂。

ナチス飛躍の重要な戦術2つは、資本家を味方にする。国防軍を敵に回さない。ナチスは本来社会主義を標榜、資本主義を攻撃、下層中産階級を惹きつけてきた。

製鉄トラストのティッセンは早くからナチスに献金。フーゲンベルグとの提携以降、大口資本家との交流始まる。

突撃隊(SA)ヤジ将軍などの集まりだが、軍人に組織化。これに対抗するために親衛隊(SS)を作った。1929年5月、ミュンヘンで国防軍がナチスと協力することを熱烈に訴えた。

1930年国防相グレーナーは、ナチスが共産主義と同じく破壊的存在であると布告。

1930年10月14日新議会招集。ナチスは議会の運行不能を狙う。デモ隊、プロイセン突撃隊の制服を議会に持ち込み、不信任動議提出で混乱。議会を否定。

1930年末、失業者400万人。

1931年3月独墺関税同盟。フランスが資本引き上げ。
1931年6月米国大統領「フーバー・モラトリアム」1年間債務返却延期。
6月北ドイツ羊毛会社倒産、7月ダナト銀行営業停止。

1930年末からシュライヒャーとナチスが接近。グレーナーはナチスを嫌っていたが、シュライヒャーはナチスを懐柔し国防軍に組み込もうという野心を持っていた。

1931年夏以降、ヒトラーは資本家と頻繁に会談。両者を結びつけたのは、1930年4月ライヒスバンク総裁をやめたシャハト。
1932年3月 大統領選。ヒンデンブルグは84歳。再選不出馬であれば、ヒトラーが大統領になりそうだったので、ブリューニングが再出馬促す。ヒンデンブルグ1940万票。ヒトラー1340万票。

ヒトラーはこの選挙直前までドイツ国籍を持ってなかった。この時期から資本家から潤沢な献金。

1932年4月国防相グレーナーが大統領と首相に説いて、ナチス突撃隊、親衛隊を禁止する緊急令発布。
しかし、その2日後、ヒンデンブルグ大統領は、社会民主党の「国旗団」も解散すべしとの書簡をグレーナーに送る。(シュライヒャーの差し金)。グレーナーはシュライヒャーから国防相を辞職すべきと要求され、拒否したが、結局辞職。

1932年バーベン内閣。彼のあと、シュライヒャー内閣。シュライヒャーは自身の望みである軍制内閣を作ろうと、ヒトラーと結び、グレーナーなどを攻撃。しかし、その間にナチス増大化。

1932年7月ナチスが第1党(230議席)。第2党は共産党。

シュライヒャーを失脚させようと、バーベンはヒトラーに近づく。

1933年1月30日ヒンデンブルグ大統領がヒトラー首相を承認。副首相バーベン。

「ヒトラーの政権掌握はクーデターや暴動の結果でなく、大統領の任命という合法的手段によるものだったが、ワイマル共和国打倒を公言していた政治勢力が国政の枢軸を担うことになった」

国会の3分の2決議でヒトラーへ全権委任する授権法を成立

政党が国民的機能を果たさなかったとき、官僚と軍隊がこの共和国の最大の実力者となったのは当然であった。

ドイツ国民はビスマルク以来、官僚の支配に馴れており、みずから国家を形づくるという意識と慣行に欠けていた。

社会と人間の存立のためになにが重要なものを破壊するものが民主主義の制度を悪用して、その勢力を伸ばそうとするときには、あらゆる手段をもってそれと闘わねばならぬということを知らなかった。それがヒトラーを生んだ最大の要因である。(p.207、抄訳)

著)林健太郎

中公新書

同じ時代の日本について知りたくて「日本の歴史 24 ファシズムへの道(大内 力、中公文庫)」も読んでみた。

DNAで日本文化の起源が分かった

文藝春秋2015年4月号(334頁-343頁)

三浦祐之(立正大学教授)
篠田謙一(分子人類学:国立科学博物館人類研究部長)

ミトコンドリアDNAは母から子へ遺伝。母系ルーツを辿れる。

富山県小竹遺跡:縄文前期の人骨91体発掘。ミトコンドリアDNAD4タイプ(日本人の3人に1人が保有)が全く検出されず。つまり、D4は渡来系弥生人の特徴という説が補強された。D4はD4aからD4nまで小分類される。D4bはシベリア先住民に多い。

南方系M7a(現代日本人の7%保有、沖縄では24%が保有。台湾では0%。日本列島に南から入った最も古いグループ)と北方系N9b(北海道から関東、ロシア沿海州先住民に多い)が混在。

縄文人のDNAは世界中のどの時代の誰とも似ていない。つまり、縄文人が日本列島の中で誕生した。4万年前から1万5千年前までの旧石器時代に北と南から多様な人が入り、徐々にブレンドされた。

九州北部の支石墓に埋葬されている人の顔は、堀が深く眼窩が四角い縄文人型。縄文的な集団が大きなグループを作っていて渡来人が文化を伝えた。

日本海文化圏。四隅突出型の方墳。出雲大社の心御柱や諏訪大社の御柱祭の起源は、縄文晩期の富山湾、能登半島の巨木文化。米子の角田遺跡出土の弥生中期の壺には、高い柱と階段の巨大建築物が描かれている。

仏教寺院以前に太平洋側に巨木文化は見当たらない。

Y染色体は父から息子にだけ継承される。Dタイプが日本列島に30%いる。日本以外には出てこない。通常、征服されると男は殺されて、被征服者のY染色体は途絶えてしまう。

網野善彦氏「関西方言と関東方言のアクセントの違いは縄文時代からある」

「縄文語」なる統一言語はなく、いくつもの異なる言語があったと考えるのが普通。

弥生の文化は農耕に特化した、ある種の道具のセット。

6万年前ホモサピエンスがアフリカから旅に出た時は数千から数万人。

桜色の魂

東京五輪で金メダルのチャフラスカヤ。

彼女は母国チェコに帰ってから、体制にその存在を消されたという。

それでも自分の信じる主義を曲げない。

金や社会へ迎合せずとも生きていける。広島の黒田も同じなんだろうか。そういう気構えの人に惹かれる。そんな彼女もチェコ民主化後要職に就き、あまりの多忙さに鬱病にかかってしまったという。

東京五輪のとき、彼女へのプレゼントに日本人のファンの一人が日本刀を渡したエピソードも面白かった。

著)長田渚左

日和下駄 一名 東京散策記

永井荷風の散歩日記。

読んでいて親近感わくのは、自分が住んでいた赤坂や日本橋人形町近辺の話。

たとえば、

『一例を挙ぐれば中洲なかず箱崎町はこざきちょう出端でばなとの間に深く突入つきいっている堀割はこれを箱崎町の永久橋えいきゅうばしまたは菖蒲河岸しょうぶがし女橋おんなばしから眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時きそって炊烟すいえん棚曳たなびかすさままさ江南沢国こうなんたくこくの趣をなす。』

菖蒲河岸は首都高速の下で埋められ公園になってる。いまは、浜町から隅田川に向かうとき通る地下道(首都高速の出口なので歩行者は地下を通る)に菖蒲橋(あやめ橋)という名前が付いてる。

それとか、水天宮について。

『しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。芝赤羽根しばあかばね海軍造兵廠かいぐんぞうへいしょうの跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯ありまこう屋舗跡やしきあとで、現在蠣殻町かきがらちょうにある水天宮すいてんぐうは元この邸内にあったのである。一立斎広重いちりゅうさいひろしげの『東都名勝』のうち赤羽根の図を見ると柳の生茂おいしげった淋しい赤羽根川あかばねがわつつみに沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続たちつづいている。その屋根の上から水天宮へ寄進ののぼりが幾筋となくひらめいている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁なまこかべの長屋と朱塗しゅぬり御守殿門ごしゅでんもんとは去年の春頃まではなかば崩れかかったままながらなお当時の面影おもかげとどめていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。』

明治人がすでに江戸情緒の喪失を嘆いてる。大名の広大な下屋敷は、とりあえず軍隊の設備になったんだろうか。戦後、それが公園や巨大な都市開発の場所になったのかも。

日和下駄という下駄があるのも初めて知った。

 

青空文庫

 

君主論

人間は手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。

特に気の利いたことが書いてあるわけではないのに、なぜこの本が古典として残ってるのか不思議だ。

たまたま残ってるのがこの本だからなんだろうか。

堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五

日本で途轍もない出来事が進行してるときに、海外に滞在してると、妙な気分になる。

実体験を伴わないフワフワ感しかないのに、同調しなければならないプレッシャー。

堀田善衛の上海日記もそんな心持に溢れてる。

昭和20年8月の終戦も上海では事前に情報が流れていた。

『レイテ戦記』のように南方で悲惨な目にあいながら戦ってる人たち。将校たち。上海にいる人。同時期に日本人として生まれて、こうも体験が違うものか。

集英社