昔とある友人に「なんでオレと付き合わないかなー?オレはやさしくて、誰もよりも彼女を幸せにできるのに」っていう恋愛相談をされたことがある。あまり飲めない酒に付き合って、「オレ」の良さを延々と話されたのだが、結局飽きてきてだんだん面倒くさくなった。たしかに「オレ」はいい奴なんだけど、他に代わりはたくさんいるんだよ。いい奴だけではモテないゾ。と思うわけである。
思うに、普通の人は「表現の自由?わたしのブログには関係ないでしょ」と思ってるんじゃないか。つまりメディアが表現者目線の主張をしても、普通の人は当事者意識を持てない。
冒頭の友人「オレ」とメディアはどこか似ている。競争相手がたくさんでてくると、単に性格の良さだけでは選ばれないのだ。
まずは、氏家さんポストから。
「からっきし人気がなくなりむしろ嫌われているマスメディアだが、自分たちの言うことがどうしたらみんなに届くのか?」
「どうしたら届くのか?」自分はまずは市井の人の声を代弁すれば、共感する仲間も増えるし、メディアへの関心がもっと増すのではないかと考えた。
その後、この前の週末こんなテレビ番組を見た。日テレの番組「ウチのガヤがすみません!」。そのなかで藤田ニコルさんが恋愛相談をしていた。その悩みに、相席スタートの山崎ケイさんが、毎朝「ニコリン天気予報」をLINEで送れば、相手の時間に入り込める。送るのを時々休むと、相手が「あれっ?オレ気になってる」と思い始める、というような解決策を提案していた。
仕組みで気を惹けと。なるほど〜。
メディアもこうした仕組みでアピールしたらどうだろうか。好かれようとする前に、必要なものと感じてもらう。つまり、魅力より機能、中身よりも仕組みである。
インターネットとマスメディアの共存を探る
そこで、このインターネット優勢な時代、マスメディアがインターネットと共存できそうな思いつきを2つあげてみたい。
ひとつめは社会のセカンドオピニオン機能。先月のNHKの籾井会長の記者会見。NHKが発表している会見要旨には載っていないコメントが新聞のウェブ版記事に掲載されている。新聞が正しいのか?公式ページが正しいのか?両方正しいのか?わからないけれど、少なくとも2つの視点を手に入れられた。マスメディアがなければ「公式発表」がすべて正しいとなってしまう。
2つめは大規模投書箱・掲示板機能である。先日『未解決事件追跡プロジェクト』という番組をNHKで放送していた。生放送だったが、番組進行中に視聴者から目撃情報がNHKに届く。そのなかに「警察に言うのは怖かったので言ってません」というものがあった。公権力(マスメディアも)が怖いという人は多いだろう。そんな人からの情報が番組に集まり、警察と協力して事件を解決していったら素晴らしいことだ。テレビで放送しインターネットで情報を集める。
どうだろう。2つとも、マスメディア(テレビ)とインターネットの役割分担がはっきりしていないだろうか。そして、ポイントはどちらも人間による編集行為が関わっているところだ。現場に記者がいたり、番組で呼びかけるといった人間による行為があるから、インターネットとは違った情報を得られる。
公式発表だけの世の中って怖くない?
いまや官邸も企業も消費者直結でメッセージ発信できる。素晴らしいことだが、マスメディアがなければ世の中は「公式発表」だらけになってしまう。機械に公式発表は嘘かもしれないという判断を委ねるのはまだ荷が重いだろう。
そして、もしマスメディアが無くなれば、公式発表がすべて正しいという意識が蔓延するだろう。そんな現象は、すでに氏家さんが下記のように指摘している。この
「下の世代」の言葉に、もしかしたら違う見方があるんじゃないか?という疑問を持つのが面倒臭いと思っている、と感じてしまうのは自分だけだろうか。
ところが下の世代にとっては、それが全然、当然じゃない。むしろ「権力になんでも反対してればいいのかよ」ってなる。
また、氏家さんの下記のような指摘、上の世代が持っている権力はすべて巨悪であるという前提もちょっと極端かなと思える。
メディアは「反権力で弱者(と思えるような人たち)の味方」であるべきってのは、考えるまでもない当たり前ことになっている。
昔より透明性や情報開示が進んでいるのだから、なんでも疑うわけじゃないが、鵜呑みにもしないという距離感が大事なんではないか。ということで、マスメディアが世間と権力と両方とうまく付き合うためにも、その機能論で攻めるというのはどうだろうか。