著作権と複製技術 – コンテンツとビジネスの境界から

メディア動向

ニューオーリンズの繁華街フレンチクォーター。バーが連なるバーボン・ストリートの一角でブルースハープを奏でる老人。この写真を撮影した同じ年、同じ曲をシャウトするミック・ジャガーは、ツアーで2.7億ドルを稼いだ。

著作権と複製技術

この100年間、芸能は著作権でコンテンツとなり、複製技術でビッグビジネスとなった。
とくに、1)放送技術の発見、2)テレビ受像機などホーム電化、3)CDやDVDなどのデジタル技術は、複製技術の3大発明である。そして、この3大発明は、著作権の流通コストを下げ続けた。

たとえば、いまや月額1万円払えば誰かが自分のメディアを映像化してくれる。DVD製作費の30分の1くらい。通信キャリアやケーブルテレビは、毎年5,000億円以上設備投資に計上し、テレビメーカーは、工場一つに1,000億円投資していた。

こうした多額の投資に見合うリターンを保証するため、業界団体による標準化と資本力で、複製技術はあるプレイヤー群に独占されてきた。

しかし、第3の複製技術、デジタル化はテクノロジーの民主化でもある。インターネット後のデファクト・スタンダードは、業界団体によるスタンダード(標準化)ではなくユーザー・シェア(つまりは、多数決)で決まる。業界の外にテクノロジーが広がる。

その結果。。。海賊版もフィジカルなディスクからデジタルファイルとなり、より手間がかからなくなった。

バンコクでは日本の地上波・衛星放送全局がそのままストリーミングされている。東京にいるより多くのテレビ局が見れる。しかも7日間分のクラウド録画つきだ。月額1万円。もちろん違法。おそらく、配信コストは月額30万円もかかってない。
標準化による著作権と複製技術の独占は機能せず、100年続いたコンテンツ「ビジネス」は、いまや覇者のいない群雄割拠な状況である。
コンテンツは芸能に戻るのか?
それでは、コンテンツは「芸能」に戻るのか?
コンテンツ「ビジネス」に、著作権と違う概念が必要となるのか?プレイヤーが交代するだけなのか?
効率性を追求する資本主義ビジネスと、それとは正反対なコンテンツの結び目はほどけてしまうのか。
とても気になる。
コンテンツとビジネス。その未来を考えるために、いろいろなところに書いた原稿をここに記録しとこう。今回は、JBPressに書いたもの。
マルチエンディング:テクノロジーの進歩がもたらすコンテンツの脱・ビジネス化(2014年6月26日公開)
神話の世界では、似たようなプロットが世界中に偏在しているという。中沢新一氏の『人類最古の哲学』には、古事記のコノハナサクヤヒメとニニギノミコトの花と石の話と、インドネシア(ボゾ族)のバナナと石の話の類似性が紹介されている。
きれいな花とバナナと、表層では違っているが、その意味するところは、エロス(生)とタナトス(死)の共生である。いつの時代も人間の心には、そんな遠い記憶が刻まれ、互いに共鳴しているものらしい。
そんなことを考えていたある日、こんなことを思い出した。
オバアチャンのむかし話。なんか毎回違ってた。気分によって登場人物やエンディングを変えてしまう。カチカチ山に、サルカニ合戦のカニが登場したり、桃太郎の行く先が竜宮城だったり・・・。
孫を喜ばせようと、登場人物が豪華になる。しかし考えてみれば、同じ民話でも地方によってディテールが少しずつ違うのではないのか。どことなく似ているけれど、ちょっとずつ違う。共通な下部構造に、表層が乗っているのだ。
コンテンツってそんなモノだったんだろう。
コンテンツ×ビジネス=コピー
ところが、近世になってコンテンツにも、「ビジネス」という色がついてくる。企業が資本を集め、商品を生産し、利潤をあげるビジネス。商売で利潤を最大化するには、複製=コピーがいちばんである。
それをコンテンツに応用すると・・・
世界の語り部がバラバラに話していたストーリーをひとつにまとめ、紙やディスクやファイルに埋め込んで、何百万枚も複製する。複製コストが安いほど、利潤が増えていく。
その代わり、エンディングはひとつである。ひとつのエンディングを大量にコピーするから企業活動が成り立つ。
15世紀のグーテンベルクの印刷技術以来、小説家からロックミュージシャンまで芸術家がパトロンの手を離れ、自立できたのは、この複製=コピーするテクノロジー(あるいは著作権)のおかげだ。
テクノロジーが奪う「アウラ」
もう70年前、カメラなどの普及が進む中で、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』でこう言った。
「複製技術でほろびるものは、作品のアウラ(オーラ)である」
アウラは稀少性のなかにある。それを複製技術が奪う。つまり、資本主義的な利潤は増やせる代わりに、アウラが消滅していく。
コンテンツとビジネスの境界がここにある。
もうひとつ、受け手の視点から見れば、複製技術と資本主義は、我々から物語を作り変える権利を奪ってしまった。
ソーシャルメディア上でも、我々ができるのは、テレビ番組をシェアすることだけ。企業が作った商品を、カタチを変えることなく人にオススメする役割である。あくまでも受け身であり、気分に合わせたマッシュアップなんてあり得ない。
夢のオールスター
ところが、ゲームの世界では、受け手のできる領域が大きくなっている。選手のカードを買って、自分の好きなチームを作るとか。
映画でも先進的な事例がある。ディズニーの映画『アベンジャーズ』は、キャプテン・アメリカも超人ハルクも登場する。違うアニメの主人公がひとつに揃ったオールスター映画である。子供のとき、自分の部屋でやってた遊びが、実際に映画になっているのだ。
さて、ここまでは、プロの作ったコンテンツの話。
テクノロジーの普及で、いまや誰もがスマホ写真家になれる。好きな写真家を真似たアングル、フィルターでカッコいい画像や映像が撮れる時代。
つまり、ユーザーが勝手に作り、楽しむ領域が拡大している。
市井の人々が作った物語を市井の人々が紡いでいくP2Pな物語――。それは、かつてオバアチャンが孫にむかし話を語っていた日常と同じである。
結局、テクノロジーの進化によって、コンテンツは昔の状態に戻っていく。つまり、物語は我々の手に戻っていくのである。
転載はここまで。(他に、あやぶろに書いたこの記事「マルチエンディング – デジタル化で我々の手に戻った物語」も読んでみて欲しい。)
オンデマンド・エンディング
著作権と複製技術の普遍化で、コンテンツに無数のエンディングが生まれる。
それはわかった。
マルチエンディング。オンデマンド・エンディングと呼んでもよい。ゲームのように受け手が自由に選べるエンディング。
無数のエンディングを制作するコストはテクノロジーが吸収するとして、この新たなカタチをいかにコンテンツ「ビジネス」化できるのか?
  1. 複製ではなく、リアルタイムで儲ける?では、リアルタイムをどのように複製するか?複層なのか?
  2. 著作権をフリーにして、コンテンツとは違うビジネスで儲けたらいいのか?
いまのところ考えつくのはこのくらいか。
とりあえず、なにか考えるために、次回は、複製技術の普遍化に対応するビジネス戦略として、タイムワーナーやディズニーの研究をしてみよう。そのあと、コンテンツの変化として、ゲーミフィケーションの研究に取組みたい。
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